前にも書いたが、私は「絆」という言葉があまり好きではない。
もちろん出会いや人間関係は「いいものである」と認めるのだが、
だからといって「関係は多いほど良い、濃いほど良い」みたいには思わず、
ほどほどがよいのである。
同様に、私は「経済」という言葉もなんか嫌だ。
なぜなら、世間で使われる”経済”という言葉には、
「お金の匙加減によって社会を自在に制御したい」
という願望が込められているように感じられ、
ほどほどを通り越した異常思考のように見えるからである。
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そもそも「経済」とは、どういう意味だろうか。
私はかつてツイッターで、「経済とは交換のことである」と書いた。
今もその考えは変わっていないが、私の考えに賛同する人はあまりいない。
むしろ、世間では
「お金を集めたり配分したり投入したりすることで、社会を良くすることができる」
と考えている人が多く、彼らの多くは
「経済とは、社会をよくするためにお金のルールや回し方を考えることである」
という意味でとらえていると思われる。
一方で私は
「経済とは純粋に交換のことであり、社会を制御する話とは関係ない」
と思っており、
おそらく今後も私の考えに賛同する人は少ないんだろうな。
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ところで、経済=交換というのは私が若いころに自分で考えたことであるが、
実は『まんが日本の歴史・第1巻』にも似たようなことが書かれていた。
まんがでは、海辺に住む人と山に住む人がスルメと毛皮を交換し、
互いに「やった、やった、儲かった!」と喜んでいるシーンが描かれ、
「これが経済の始まりです」という説明が書かれていた。
(私は”始まり”ではなく”すべて”だと思っているので微妙に考えが異なる)
ここで、ちょっと「交換」について考えてみてもらいたい。
人は「交換」という行動をしはじめると、
自動的に「欲張りな行動」も大量に発生する仕組みになっている。
というのも、もし交換という行動がなければ
食いきれないほどのイカを獲りまくるのはアホでしかないが、
交換という行動があることによって
「イカを獲りまくっていろんな山へ持っていけば、超裕福になれるやんけ」
と考える奴が出てくるのは必然だからである。
(こういう行動のことを、あまり適切な言葉ではないが仮に「欲張り」と呼んでみる)
この欲張りがエスカレートすると、お金の第1法則である
【自由競争市場は不完全であり、独占に対して脆弱である】
というメカニズムから、彼らの中には
「どうにかして海を占有して、イカを俺の専売にしたいな~。
そうすればスルメをより良い条件で売ることができ、
俺様は超スペシャル裕福になるに決まってるからな。グヒッ♥」
とか考える奴も次々と湧いてくることになり、
もともとは善なる行動であった「交換」が、
乱獲や縄張り争いという、ろくでもない結果を生むわけである。
この問題に対する答えは、私の考えでは
1.スルメ屋との取引を停止する
2.場合によっては襲撃する
の二択しかないと思うのだが、
世間ではそのような考え方をせず、むしろ
「欲張りは人の自然な感情であるから、否定するべきではない。
ルールとか定めて、人間の欲張り心を上手に活用すればよい。
それを考えるのが経済学だ。」
みたいに考える人がおり、
それらの人々が
「経済=社会をよくするためのお金の回し方」
みたいに考えるのであろうと思われる。
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私は交換が大好きであるし、商売も嫌いじゃないし、
社会をよくする方法を考えることも否定しないが、
間違った理屈を言われるのは嫌である。
実は欲張りというのは、交換によって発生するのではなく、
単に顕著化するだけなのだ。
このことは、交換を行わない生物を観察することで理解できる。
犬や猫でも、弱い兄弟から餌を奪ったりするやつは、普通にいる。
すなわち、交換以前から欲張りは存在しているのである。
したがって、交換の方法をいくら工夫したところで
欲張りという病を治療することはできない。
私はこれを素直に認めて、
「欲張りが交換(=経済)の邪魔をしている」
という厳然たる事実からスタートしなければならないと思うのである。
それなのに、自称経済学者の人たちは、まるで
「経済の制度が良くないから、欲張りが発生してしまうのだ」
とでも言わんばかりの論調で、
やれこうすべきだ、ああすべきだと屁理屈をこねながら、
やたらと他人の金(税金)を動かしたがるので、
私とはまったく意見が合わないのである。
(そんなにやりたかったら自分の金でやればいいのに、と私は思う)
本当は、そうではないだろう。
交換というのは、もともと欲張りに対して脆弱なものなのだ。
だからこそ、人は交換に頼り切ってはいけない。
スルメが食いたければ、自分でイカを獲りに行かなければ
ならないことだって、当たり前のように起こる。
それは非能率であり残念なことであるが、
この世に欲張りがいる以上、交換に限度があることは
仕方のないことだと思うのである。
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さて、こうして「交換」について考えてみると、
世間で言われている経済論において、
「交換が活発に行われること(=好景気)は、たいへん望ましい」
という考えが、
論調のけっこう大きな比重を占めていることに気づく。
たしかに、交換がない世界というのは原始人的な世界であり、
たいへん非能率なのでよろしくないというのは理解できる。
しかし、わざわざ強制集金した大金をぶち込んでまで
無理やり交換を促進しようと試みるのは、やり過ぎではないだろうか?
世間ではしばしば「経済効果」などという言葉が用いられ、
たとえば
『1億円の公的資金を注入してお祭りを促進したら、
住民も2億円を出して祭りが開催されました。
住民は2億の出費で3億ぶん遊べるというお得感から参加しただけですが、
ともかく消費が行われて景気がアップしたのだから目的達成です!
ちなみに経済効果係数は2.0でした!』
みたいな考え方をするのがさも普通みたいになっているが、
そもそもなぜ、わざわざ1億円の不公平を作ってまで消費(交換)を
促進したいと思うのかが謎である。
(てゆうか、税金に持ってかれる1億ぶんだけ他のどこかで可処分所得が減り、
そのぶん他の場所の消費が減るであろうと推測されるので、国全体としては
消費を喚起したことになっていない。
まあ全国で同じように”援助祭り”を行えば「祭りで金を使わない奴だけ損する
ようにしてやるぜ」って脅すのと同等の意味を持つことになるが、そうまでして
国民にむりやり消費させたいと考える強制願望がどこから来るのか謎である)
私が思うに、
社会が不景気になる(=交換が行われなくなる)のは、
人々が
「なんか欲張りが大繁殖してきて、交換する喜びが薄くなってきたな。
それじゃ、しばらく交換は控えて自給率を上げようかな。
誰も交換してくれないと知れば、そのうち欲張りも沈静化するやろ。」
と考えて、
自然かつ平和的な対処行動を取っているだけなのではないだろうか。
だとしたら、べつに強制的に集金までして
無理に交換を活発化させる必要などないと思うのだが、
世間はそうは思わないのかな。
まあもちろん、米やミルクなどの必需品について、
買占め等で流通が停滞するのは命にかかわるのでよろしくないが、
そのような場合はお金を突っ込むのではなく、
歴史のように武力を突っ込んで越後屋を打ち壊すのが正解だろう。
それは物騒だからということで、百歩譲って
「金で欲張りの邪魔をして後悔させる」という方法
(たとえば高値でもいいから公金で外国からミルクを買い、
それを安価に放出することで買占めを失敗させるとか)
を取るのだと思うが、
本当はそれは最善ではなく、
きちんと袋叩きにして刑務所にぶち込むのが最善だと私は思う。
(欲張りのためにわざわざ国民が損な取引をする必要はないし、
外国に対してもはた迷惑であると思うからだ)
総じて私は、
人々の行動を金でコントロールしようとするのは根本的に間違っていると思う。
問題の根源は「欲張り」にあり、人々の行動は「欲張り」への素直な反応でしかない。
それなのに金で社会のほうをむりやりコントロールしようとすると、
それはむしろ欲張りを「やっぱ金だよな」と活発化させるだけで、
私が愛する「交換」をますます阻害させるように見える。